道徳を考えてみる
今日は最高気温が10℃!昨日から春を感じますね~ 昼間歩いていると、頭の中を♪は~る色の汽車に乗~って♪というフレーズが流れていきます。もちろん松田聖子の物まねしながら・・・・ってできないけど。頭の中なので完璧に真似しています。ただ気をつけないと、声に出して歌っちゃいそうなので、変な人に思われないようにしなくては・・・
なんとなく「道徳」を考えちゃおうかなあと。「道徳」を教科にしようという話がありますね。最近の世の中は「正義」が尊重されなくなっているとか、最初から「自由」だから、皆が「規範」がわからなくなっているとか、そんなことが言われているようです。でも、それって危険だなと思うのです。そう言っている人って、もしかすると自分は「正義」や「規範」をわかっていると思っているのでしょうか。そして、今は「規範」がはっきりしていないけれど、昔は明確だったとでも言うのでしょうか?自分だけは「正義」がわかっている?何が正しくて、何が悪いのかわかっているの?もしくは、わかっている人がいるとでも言うのでしょうか?
ほ~んとう?????
善とか悪ってそんな単純なものではないですよね。世の中すべてが「善」と「悪」に簡単に二分できるものでもないのでは?と~っても幅の広いグレーゾーンがあって、皆、その中で悩み、迷っているのではないでしょうか?だから、ハリウッド映画の単純な「勧善懲悪」についていけなくなってしまった。ハリウッド映画の凋落の原因のひとつでしょう。マスコミ(特にテレビ)の上から目線に、軽く不快感を覚えるのもそのせいではないかと思います。
誰もが生きている中で、常に「選択」している。その選択が果たして正しいのか、正しくないのかはわかりません。短期的には誤っていたとしても、長期的には正しいのかも知れない。でも、5年後には正しくても、20年後には?残念ながらわかりません。自分にとって正しかったとしても、他の人にとっては異なるかもしれない。裁判制度なんてものが始まろうとしていますが、できれば他人を裁くなんてやりたくありません。だからといって、現状の裁判官に押し付けている制度が良いわけでもないかもしれない。
そう、だから自分は他人に「道徳」を教えられるなんて、今の若者はなっていないから自分たちが「規範」を教えなおしてやる!なんてことは傲慢な考え方だと思うのです。きっと、もし「道徳」を教えられる人がいるとしたら、イエス・キリストか釈尊かムハンマド(マホメット)くらいでしょう。しかもきっと彼らは押し付けないのです。彼らは自分の考えを述べるだけ。それに共感する人、そこから何かを見出す人だけが、彼らから何かを学ぶのです。「道徳」ってそういうものなのでは?気づきでしか、道徳なんて身につかない。誰かが教えることができるようなものではないのでは?だって、採点だってできない。テストをする時、このシュチュエーションであなたはどう行動するべきだったでしょう?という問いがあって、それに解答して、それを○、×、△、もしくは10点だとか5点だとか点数つけるのでしょうか?
批評とか批判は簡単ですよね。でも、大勢に逆らってでも、自分のポリシーを貫くことができますか?戦時中を批判するのは簡単です。でも、日本全国が戦争に向かってひた走っていたあの時代に、憲兵に捕まって拷問をうけることが分かっていながら、「戦争反対」を声高に唱え続けることができるのでしょうか?あの杉浦千畝さんのように、本国に逆らってユダヤ人たちにビザを発行し続けることができますか?チャップリンが「殺人狂時代」をアメリカで製作し、「一人、二人殺したのであれば犯罪者だが、数万人殺せば英雄だ」と痛烈なアイロニーを込めて主人公に語らせた勇気。結果、チャップリンですら「赤狩り」にあい、アメリカを逃げ出さざるを得なくなるのです。
そんな勇気があなたにありますか?
そういう人にしか、「道徳」や「正義」を教えることができないのではないかと思うのです。中途半端な表面的な「道徳」なんて危ないだけです。「儒教」の精神が何が何でも正しい訳ではない。「行動規範」は教えられるものではなく、「気づく」ものです。どんな大人だって子どもに教えられることもある。道徳を教えることができるなんて考えることが傲慢だと思うのです。
う~ん、何かまじめだな、私。でも、常に迷って生きているのが人間だし、「正解」なんて簡単に見つからないのですよね。
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