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2009年4月に作成された記事

2009年4月26日 (日)

4月なのに雪!

 寒いとは思っておりましたが、なんと雪です。4月26日なのに、もう少しで桜も咲くはずなのに、雪です。Image076 我が家の庭もこんな感じです。モノクロ写真ではないですよ~~カラーですよ!!

 さて、話題のあの人の話を避けるわけには行かないかなあ?草彅剛さんの話です。

 正直言うと、意外にも世間は彼に優しいかなと。もっと厳しいこと言うのかと思ったけれど、おやっ?と。やはり「公然わいせつ罪」という罪名のインパクトに対し、実は酔っ払って公園で全裸で騒いでいたということが、あれ?って思うからかな。酔っ払って迷惑かけ罪であれば、まだ理解しやすかったかもしれない。

 でもね、アイドルだからなあ・・・アイドルは乱れちゃいけないのよね。「アイドル」が仕事だからね。傷つけてはいけないのよね、偶像を。しかし、芸能界はよくわからないが、サラリーマン社会においては、あまりにも正体なく酔っ払っている場合は、一人で放置しないけどね。取り合えず家に入るまでは、見送るんだけどなあ。場合によっては、家まで運び込みますが・・・相手がSMAPだとそこまでできないのか?全員がとんでもなく酔っていたのか?だって、場合によっては本人が犯罪に巻き込まれたりするじゃないですか?酔っ払って気が大きくなって、けんか売って逆に殴られたりとか、酔っ払いの失敗話はよく聞くし、酒乱は何度か目にしたし・・・大体の場合は、酔っ払いはろくな目にあっていない。なので、酔っ払いを放置するのはやめましょう。

 まあ、草彅さん、まずは反省して、今後はお酒に飲まれないようにね。

 西原理恵子さんがテレビに出ていました。全部は見なかったけれど、カモやん(だんなさん)が、戦場カメラマンだったとか、なんとアル中だったとか、そのため離婚して、でもカモやんがアル中を克服して戻ってきた、なのに、ガンで2007年に亡くなった。え~っ、知らなかったわ。西原さんって、なんとなくスゴイ人のような気がしていた。マンガは読んだことないけれど、清水義範さんとコンビを組んで「どうころんでも社会科」とか、「おもしろくて理科」というような本を出していた。西原さんは挿絵なのかなんていうのか、マンガをその本に書いているが、一見、清水さんの文章とは全く関係ない。ただ、意外に深い。深いというか、キレイゴトを言う人ではない!ってことです。全然知らないけれど、なんか淡々と生きていて、つらいとか大変だとか、お涙ちょうだいに走らない、スゴイ人だなって思う。そして、カモやんが亡くなっていたことが、残念です。あのマンガからはカモやんの人の良さが伝わってきたけれど、まさか、アルコール依存症で暴力ふるっていたとは・・・でも、頑張って直していたとは・・・カモやんがやさしい感じで描かれていたのは、西原さんの気持ちなのかな。きっと、そうだね。  

2009年4月19日 (日)

宮部さん

 時々、空腹時に低血糖状態になる・・・昨日の夕方ちょっと買い物と思って歩いていたら、妙な汗はでるわ、しかも流れてくるし、何か震えは出るわ、まずい!と焦って何か食べるもの!と、とりあえずKIOSKでグミ買って口に入れた。結局、家に帰ってから、夜7時には寝てそのまま11時まで熟睡していた・・・う~ん、何なんだろう?すっごいお腹空いていたわけでもないんだけどなあ。おかげで、レッドカーペットも国別対抗フィギュアも見れなかった!

 さて、宮部みゆきさん。あんまり読んでいなかったのだけれど、読売新聞の連載小説を読みながら、「宮部さんって、優しい!」と、興味を持ちました。まず読んだのは、「われらが隣人の犯罪」。なんていうのかな?大切にすべきことを忘れていない。登場人物はユーモアを忘れていない。でも、ちょっとルール違反もやってしまう。ただし、人を傷つけることはできるだけ避ける。だけど、勧善懲悪なので、悪いことをしている人、迷惑をかけている人は自業自得な目にあう。すっごい犯罪は出てこない。子供に優しい。子供がしっかりしている。

 次は、「ステップファーザー・ステップ」。新興住宅地のある家に泥棒に入ろうとして失敗したある男が、双子の中学生の養父みたいな感じになっちゃう。その双子の両親は、それぞれに愛人とどっかに行っちゃった。そして、お互いに「お母さん(お父さん)にごめんなさい」と言っておいてと。ん?どちらも、どちらかが子供たちと一緒にいると思っている。双子たちは別に親を恨むこともなく、生活を楽しんでいて、上から降ってきた泥棒君を父親に定めちゃう。泥棒君はまんまと双子たちにはまってしまう。そして、毎回なんとなく「謎解き」をしている。

 宮部さんは優しい。あるがままを受入れながら、子供たちはなんかしっかりしていて、ちゃっかりしている。大人たちも変な「正論」を振りかざすことなく、鷹揚に子供たちを受け入れている。時々、大人たちも自分の「感情」をむき出しにしながら、子供たちはそれを見て戸惑いながら、そして、何かをそれなりに考える。

 忘れちゃいけないね。「優しさ」

2009年4月12日 (日)

ハリスおばさん

 景気対策って言ってもね~~ちょっと調子に乗りすぎじゃないのかな?麻生さん。そんなにお金使われてもね。結局、税金だし。お金なくなったら、増税だし。確かにさ、アメリカはいわばバブルが崩壊したからの景気対策が必要だろうけれど、日本の場合はずっと前から「構造改革」が必要だったのではと。それをやらない限り、日本経済は回復しない。何故、小泉さんが国民からの人気があるかというと、「構造改革」をしようとしたからなのに、今の政府や経済界は理解してくれない。いい加減にして欲しい。

 と、腹が立つので、心を和ませるには、ポール・ギャリコの「ハリスおばさん」シリーズを。ハリスおばさんとは、通いの女中さん。イギリスには今でもあるかどうかはわかりませんが、上流階級の家に通いで家の掃除に行く女中さん。年齢は60代~70代?基本は前向きで、全うな常識の持ち主。なのにある時、通っている家でディオールのドレスを見た瞬間、どうしても欲しい、買わなきゃと、一所懸命お金をためて、なんとパリまで買いに行ってしまう。「ハリスおばさんパリへ行く」"Flowers for Mrs Harris"いじめられている少年のお父さんを探しにニューヨークに行ってしまう「ハリスおばさんニューヨークに行く」"Mrs Harris Goes To New York" さらには、国会議員に立候補してしまう「ハリスおばさん国会へ行く」"Mrs Harris Goes To Parliament"そして最後はお得意さんの恋する女性を連れてくる「ハリスおばさんモスクワに行く」"Mrs Harris Goes To Moscow"

 読んだのは小学校の頃だったかな?挿絵のついた小学生向けの本で読んだ。ディオールのドレスってどんなものかなと思いながら。ある意味ではありえない設定です。でも、どうしても欲しいと、絶対に欲しいと願ったアダ・ハリスが、2年かけて450ポンド(この本の発表は1958年。当時での価値は?100,000円ってことはないだろうなあ。1,000,000円相当?)をためて、なんとパリまで買いに行く。でも、全然その世界の常識を知らないので、壁にぶつかるのだけれど、ハリスおばさんの機知と勇気に周囲がなぜか感化され、無事にドレスを手に入れる。

 とても、ハートウォーミングなお話です。ギャリコの本領発揮というところ。ギャリコはもともと新聞社でスポーツ担当でしたが、"スノーグース"で作家としての基礎を固めます。あの"Jennie"を始めとして、ギャリコの暖かさがどの話にも根底に流れています。会ってみたかったなあ、ギャリコ。残念ながら1976年に亡くなっています。たぶん、私がこの本に出会った時には、亡くなっていたのかもしれません。 

 忘れてはいけませんね。何事もできないことはないのです。チャレンジする精神は大切です。機知と勇気と、ユーモア。これを忘れなければ、不可能と思われていることも可能となるかもしれない。日本の構造改革もできるかもしれない。

2009年4月 5日 (日)

入院体験記その3~骨髄移植体験(2)

 さてさて、前回からの続きです。

 適合の連絡を受けてから、「どうしよう?」と正直言って悩んだが、でも登録しておいて連絡きたのに、何もしないのも変だなと思って、結局決断した。手術の日も決まり、さて検査と自己血だということになった。

 今回の私の担当コーディネーターの方からすると想像できないくらいに、私の仕事は忙しいらしかった。いちいち「大変ですね~」と言われることからして、だんだん鬱陶しくなり「ほっとけ!」と思った。そして、移植をする病院はたいていが大きな病院のため、検査の日や医師との面談は指定された限られた日となるが、たいてい私も予定が入っていた。指定された日を告げられるたびに「ああ、その日は予定が入っていますね」と言うと、コーディネーターさんは「あら、どうしましょう」。どうしましょうじゃないだろう。どうにかするしかないんでしょう?で、いくつか候補日をもらって、いろいろと調整した。本人の性格だから仕方がないのだろうけれど、だんだん私も苛立ちを隠せなく、結構きつい言葉を投げてしまっていた。申し訳なかったが、でもその「どうしましょう?」というあなた任せな感じが、とてもビジネスライクではなく、どうしてもイライラしてしまったのだ。

採血する量もドナー本人の体重に依存する。もちろん、ドナーを選択する時に、患者さんが必要とする量とドナーの体重を考慮して選んでいる。私は750CCとられるということだった。そのため、自己血をあらかじめとっておいて、それを自分自身に輸血し、750CC取られても、貧血などおこさないようにということだ。私は200CCずつ2回に分けて自己血をとる予定だった。ところが・・・・

 何故そんな話になったかは覚えていない。病気で薬を飲む場合は、ちゃんと報告しないとならなかった。でも、ビタミン剤は不要だよなあと、私は思っていた。現に市販薬は飲んでも良いと言われていた。私は時折肩こりと腰痛がひどくなるので、ビタミン剤を飲む(アリナミンなんとかとか、ナボリンなんとかとかね)ことがある。で、この時もちょっとひどくなったので飲みだした。コーディネーターにはそんな話をするつもりは全然なかったのだが、何かの拍子で話をしてしまった。しまったと思ったが、もう遅かった。肩こりで指がしびれることもあるとまで言ってしまった・・・それが大間違い。「しびれる」が一人歩きした。

 「今回は中止にするという通知がきました」といわれた瞬間、耳を疑った。えっ?何で、だって、そんなことしたら患者さん死んでしまうのでは??要は、「しびれる」という状況がある場合、骨髄移植で悪化するかもというので、地区の取りまとめの医師が中止の判断をしたというのだ。ええ~っ!だって、「肩こり」が原因だってわかっているんだから、関係ないじゃん。ちょうど、その日は自己血を採りに病院にいく日だったので、担当のお医者さんと相談をした。お医者さんがわかってくれて、伝言ゲームでたぶん大げさな話となったのでしょうと。私からその医師に説明をしますよと。ただし、その日の自己血採血はなし。その後誤解は解け、予定通り実施することとなった。ただ、自己血を2回取る予定が1回となってしまったので、一度に300ccまでなら私の体重でも採ってよいと、それでなんとかなるという判断がなされた。

 そして、3泊4日の入院となった。入院2日目が手術日。私は健康体なので歩いて手術室に行った。うわあ、はじめての手術室だあ。。。朝9時からの予定されている手術なので、なんとなくバスの待合室のような雰囲気で、手術を受ける人たちとその家族の人たちが雑然といた。あまり緊迫感もなかった。その間を抜け、スタスタ歩いて、並んでいる手術室の1つに入り、ベッドに横になった。見上げるとよくドラマで見るあの丸が並んだ照明。「おおっ」とドキドキしている間にテキパキと準備が進められ、麻酔をうたれたと思ったら、「終わりましたよ」と、言われて目が覚めた。

 9時から始まり、11時30分くらいかな。わけわからずボーッとしたままストレッチャーで病室まで運ばれた。ストレッチャーで運ばれている間、酔いそうだった。全身麻酔がなかなか抜けず、ずっとボーッとしていた。昼頃、コーディネーターさんが来てくれていたが、とても起き上がれる状態ではなかった。血圧が上が79で下が36なんて状態がこの日の午後から翌日まで続いた。なんだ、その血圧は?見たことないぞ。おかげさまで食欲はないわ、寝たきりだわだった。翌々日には良くなったが、その日は退院の日。親が迎えに来てくれて車で帰ったが、車でも酔いそうだった。そのまま2日間寝たきりモードで、3日後から出社した。

 傷はそれほど痛くもなかった。ただ、仰向けに寝るのはちょっとつらいので、1週間は横向きに寝ていた。そして、2週間くらいは本調子ではなかったかな。ちょっと疲れやすかった気がする。でもその後は全然問題なし。もう2回目はいいやと直後は思ったが、今では2回目に適合連絡が来ても、受けようと思っている。

 しかし、その半年後くらいにまた連絡が来た。DLIをお願いしたいというものだった。リンパ球を輸血するというもので、おそらく患者さんの容態がよくないということである。それもうけることとし、またまた別の病院に行った。それは成分献血みたいなもので、片方の腕から採血しリンパ球を取って、残りの血液をまたもう片方の腕から戻すというもの。それも2時間くらいかかった。その間動けないので、ベッドに横になりながら、テレビを見ていた。そして、この時はどうみても30代前半の検査技師のイケメンな男子たちが、私の面倒を見てくれた!!これは気分が良かった!!侮れないよ!検査技師。世間の女性陣、要注目です。

 そんなこんなな骨髄移植体験記ですが、言いたいのは、登録者数が減っているという話があるが、まず登録を受け付ける時に、もう少しちゃんと話を聞いてはどうですか?っていうこと。だって、ひやかしかどうかなんて、会話をすればわかることだし。あとは、誰のための「骨髄移植」なのかなって。財団が訴えられないように、安全に安全にって行き過ぎているような気もします。コーディネーターさんも保守的だし、どういう教育しているのかなって?また、皆、忙しいのですよ。大病院でないとできないのもわかるけれど、「検査」はどこか検査センターってないのですかね?そこで毎日受け入れられれば、もっと気楽に検査にもいける。お金のかかる問題もあるだろうけれど、工夫次第というものもある気がします。

入院体験記その2~骨髄移植体験記(1)

Image048_3  オーリーがご飯を食べなくなった。2,3日前にニャーと珍しく大声でないて、かなりもどした。その後もまた胃液まで吐いてしまった。それから、ご飯を食べない。昨日、病院に連れて行き、年だから腎臓機能が低下していると。今日も日曜日だけれど、診察してもらった。食欲が戻るまでは毎日通院要。でも、もう厳しいかもしれない。グーグーの先代猫のサバと一緒かも。猫は腎不全で亡くなる場合が多いらしい。

 さて、昨日の続きだ。そう、2泊3日ではじめての入院を経験した1ヵ月後。手紙が届いていた。

 骨髄移植推進事業団からの「重要」、「至急開封してください」とかかれている封筒。そういえば、私は骨髄バンクに登録していた。どうして登録したんですか?とよく聞かれるが、特別な理由があったわけではない。「臓器提供意思表示カード」も持っているし、できることはしようかなというくらい。しかも、骨髄バンクの登録は献血ルームでできるということを知ったので、じゃあ登録しようっと。

 しかし!登録しようと献血ルームの人に声をかけたとき、「あっ、失敗した」と思ったのだった。その人は男の人だったが、いかにも面倒くさそうな、しかも上から目線の「役人」って感じであった。「冊子をちゃんと読んできました?」と面倒くさそうにしかもえらそうに聞かれた瞬間、私の天邪鬼モードにスイッチが入った。「冊子ではなくインターネットで・・・・」と言いかけると、それをちゃんと聞かずにその「役人気質男」(公務員の皆様ごめんなさい。「役人気質」って公務員否定ではなく、よくいる杓子定規で自分の仕事の枠を決め込んだ、融通利かない気質の意味です。)は、私の話をさえぎり、「いや、ちゃんと冊子も読んでいないようだと、登録できません。」とのたまった。(なんだ、お前は。私はお前なんかには話はしないぞ!)と心に決めた私は、「わかりました、またきます」と、その日はあきらめ、翌日また行った。次の日応対してくれたのは女性で感じがよく、ビデオなど見せてもらってスムーズに登録は進んだ。ビデオを見たら、血液を採って終了。簡単だった。昨日の「役人気質男」の姿がチラッと見えたが、こちらには出てこなかった。出てきたら、ただじゃおかないからな。

 それが、何年前かしら?忘れていたわけではないが、その重要性を主張した封書が届いた時に思ったのは、「おおっ!適合したのか、適合することがあるんだ、どうしよう?」って、ねぇ、どうもこうもないよね、自分で登録しておいてさ。

 想像通り、「LHAが適合した患者さんがいる」と、1週間以内にアンケートに答えて送り返してくださいと。アンケートは健康状態とか、まだ提供意思があるかとか、いつくらいなら検査に行けるかとか、詳細に関するものであった。取り急ぎ、すぐ回答した。

 その時、実は仕事でちょっとトラブルがあって超多忙だった。アンケートに回答後、コーディネーターから連絡があるということで、自分の個人携帯の番号を伝えておいたが、連日23時すぎないと帰宅できなかったし、なかなか調整ができず。それでもなんとか、骨髄移植についての説明と、検査の日程が決まった。病院の先生もボランティアだそうだが、わかりやすく説明してくれた。私自身が勘違いしていたが、骨髄移植というのは、「手術」するというよりは、規模の大きい「献血」という感じ。骨の中を流れる血をかなり大きな注射器で採血する。で、その骨髄液を移植し、患者さんの血を入れ替えるというようなこと。少々乱暴な表現ですが、そういうことみたいです。別に、メスを入れるわけではなく、腰のあたりにでっかい注射器を2箇所くらいから刺して、血を採るってわけ。

 リスクに関しても説明はあったが、ドナーの死亡例は日本ではないし、多少事故はあったが、1%以下だった(この辺のデータは、ちゃんと骨髄バンクに聞いてくださいませ)。その統計をどう取るかはそれぞれの人次第だが、私はリスクが低いと判断した。

 適合者は5名くらいはふつういるらしく、そのドナー候補5名の詳細検査結果で、患者さんの担当医がこの人からもらおうと決めるらしい。私は説明聞いた時の先生に、健康だね~良いね~と言われたので(お酒は飲めないし、煙草もすわないから、どう考えても良い「血」のような気がするし)、可能性が高いかなと思っていたら、結局指名された。この時点ではまだ断ることもできるが、家族含めて面談をし、最終同意をすると後戻りはできない。何故かというと、患者さんが準備に入るのだ。準備に入ると患者さんは移植を受けられないと、死ぬしかないということになりかねない。コーディネーターの人は家族の同意が得られるかということをやたら心配していたが、うちの親が反対する可能性はまずないと思っていた。我が家は極めて不干渉な家族である。自分のことは自分で決める。よほどの理由がない限り、自分のことを自分で決めて反対されることはない。だいたい、たとえ反対されても、納得できる反対でない限り、従うこともないし。

 その後は手術日の決定と、手術に向けた検査や自己血をとることとなる。実際の移植は説明を受けた病院ではなく、別の病院となった。しかし、実を言うとコーディネーターさんとの関係で、私はちょっとストレスがたまった。私は「コーディネーター」というからには、いろいろと相談に乗ってくれたり、調整をしてくれるのだと思っていたが、実際は彼ら、彼女らは、まずは移植に関してあくまでもドナーの自発的行為であり「押し付け」ではないことを確認すること、検査日の連絡(調整ではないぞ、あれは!)、ドナーの安全についての確認が主な仕事なようだ。どちらかというと、第三者機関なのね。なんていうのだろう?どうも私はそのコーディネーターさんとは合わなかった。

 ・・・またまた続く・・・・・

2009年4月 4日 (土)

入院体験記その1

 私はかなり健康体である。低血圧だったり、低体温だったりはするが、特に問題はない。朝起きるのがつらいのと、朝は相当に機嫌が悪いだけである。特に月曜日の朝はかなり低テンション(単に仕事をしたくないだけかも)。なので、大人(っていっても本当に大人になっているのか、今でもわからないが・・・)になるまで入院したことはかった。そう、約40年入院したことなかったのに、数年前のある1年間に数日間ずつだが、2回入院した。

 最初は大腸ポリープだった。まあ、手術っていってもね、ファイバースコープで取るって感じで、大したことではなかった。何がつらいかって、下剤!!!2リットルですよ、2リットルを飲むの。しかも2回も!!1回目は内視鏡検査のため。検査は午後だったけれども、8時までに2時間で飲まないとならなくて朝6時に起きて飲みだした。1リットルまではまあなんとか飲めた。しかし!1リットルを過ぎてからは、だんだん吐き気がしてきて飲めなくなってくる。もうダメだと思い、「2時間過ぎても飲めない時は電話ください」と書いてあったので、病院に電話をした。しか~し、回答は冷たかった。

 「時間過ぎても良いので頑張って飲んでください。」

 なに~~~!!何のための電話なんだ~~?仕方がないから頑張って飲みましたよ。10時くらいまでかかったわ。で、検査の結果ポリープが発見され、それをとるために2泊3日で入院しました。この時ももちろん2リットルの下剤を飲みましたが、やはり1リットル過ぎたあたりから、つらい!そして、この時は10時までに病院にいかないとならなかったので、便が透明で水っぽくなった段階で、飲むのやめちゃった。0.5リットルは残っていた。これでいいのかなあと少々不安であったが、問題なく手術は終了。ああ、良かった。これが初の入院で、2泊3日であった。そして、なんとその1ヶ月後にある通知が来たのだった。(って、疲れたので、続きは明日だ。)

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